広島回顧旅 その⑤平和記念公園編

広島3日目は雨予報。ちょっと歩きにくいなと思っていたけど、雨は明け方に降り終わり

涼しく歩きやすい日に。午後は安芸矢口まで行くのでありがたい。。


ホテルから近くて店員さんが素晴らしいと書いてあった”てらにし珈琲”でモーニング。

その通り、とっても温かい接客。障がい者の方も使いやすい配慮がしてあって、ボリューム満点で安い。優しい気持ちに押し出され、今日はいよいよ平和記念公園へ。


途中にあった”広島市立第一高等女学校の慰霊碑。ここにはアインシュタインの相対性理論の”E=MC2”の文字が刻まれています。当時”原爆”という言葉は使えずとのこと。


詳しくはこちら

https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?insight=20140116091106172_ja

2時間はたっぷりいただろうか。。資料館の中では撮るかもと持参したカメラも、飲むかもと思った水筒も一度も出すことが出来ず。

コロナで”おしゃべりは控えめに”などと言われなくても、幼い子供でさえ誰も言葉を発していなかった。


よれよれと出口の椅子に腰掛けたら窓からまた原爆ドーム。

”ちゃんと見てきたか?”と聞かれたような気持ちに。

前回来たのは20歳の時。リニューアルされているので記憶が曖昧だけれど、またちゃんと見に来てよかった。沢山の”ある日”が4000度で焼かれた日。鉄が1500度で溶ける温度。

この平和記念公園の場所も元々は賑やかな町だった。みんな朝ごはん食べて1日を始めたばかりだった日。

なんだったんだろうね。戦争って。何がしたかったんだろうね。今もいつ核戦争が起きてもおかしくない。人間の罪の深さを改めて知り、神様に問う時間となった。


1時間ほどの語り部さんのお話もとてもよかった。。もう高齢で実体験の方じゃないくても

その方の娘さんが語り部になっていたり、それでも写真や資料をもとに、胸に刺さる証言だった。


資料館を出て芝生を歩いていたら、今年出来た小さな建物があり入ってみると

この場所から発掘された民家の遺構だった。確かにここに暮らしがあったことをより鮮明に

教えてくれた。


積層の記憶

https://www.city.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/176451.pdf


まだ資料館と外の空気との間に溶け込めず、お祈りしてふらふらしていたら、

”お一人ですか?”とお年を召された方に話しかけられ、

”これから母とお姉さんのところにお参りにいくんだけど、普通の人は中々入れないから

いきますか?”と。

良い機会なのでご一緒すると、ものの30秒くらいで

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館” へ。

Mさんという方で、聞けば7歳で被爆され現在84歳。被爆孤児として色々な人にお世話になって生きてきたよ、とのこと。

さらっと言われたけど、大変な人生だったと思う。

建物入ると、(実はじっくり見たかったが、Mさんの歩くペースが早いのと、意外な展開で

ついていくのに精一杯でもあった、、)原爆犠牲者が住んでいた町ごとにデータベース化されていて、名前を入力するとお写真と被爆当時の記録文章も出てくる。これはMさんが追悼記を出したから載せられているとのこと。

”最近顔出してなかったからなー”と お母様、お姉さまを一緒に検索しながら見せて頂いた。

パパッと画面を見ると、”きたよー”みたいな感じで、あっさり建物を後にして、外へ。


私はこれから広島駅へ向かうことを伝え、途中まで歩きながらお話を聞かせてもらう。

まさか被爆体験の方、しかも被爆孤児の方と直接お話しをさせてもらえるとは。

”語り部をしてほしいと言われるんだけどね。言葉につまっちゃうよ。アナウンサーみたいに合いの手入れてくれたできるかもしれないけど、”と。

勝手な思いで、できるなら私がインタビューしたいなあと思ってしまった。。


それにしてもシャキシャキと歩くのも早いし、”なんでそんなにお元気なんですか?”と聞くと

”元アスリートで、レーサーだったんだよー”と。一応障害5級で障がい者なんだけど、だれも信じてくれないんだよーなんて明るい。ガンも患っているけどさーと、

今日はちょっと涼しいからお昼ご飯の買い物ついでにここまできたよ。

じゃあ残りの旅もお元気でね”と

お供させて頂いたのは15分くらいだっただろうか。

とても貴重な時間だった。。

相生橋にて、背中だけ撮影させていただきました。。ありがとうございました。

どうかお元気で。。


友達も沢山いて、よく飲みに行っているよーと今を楽しむMさん。

”筋トレは大事だよ”というメッセージもありがたく頂戴し、

この方との出会いの意味を考えつつ、もう一度原爆ドームへ。

最後は正面から。

何度見ても、胸に迫るものがあった。


原爆ドーム駅から、次は旅の最後の目的地へ。


この路面電車は京都の市電から来ていた。

原爆投下3日後に路面電車は動いていたそうです。。

どん底から復興してきた広島の底力、街からもその力強さを感じました。